「古き良き時代のサンフランシスコーその1」
大学を卒業した翌年、両親は米国留学を許してくれました。
私は将来画家になりたかったのです。
いま改めて私をサンフランシスコに送ってくれた両親の深い理解を感謝します。
サンフランシスコに到着した私は、早速「アカデミーオブ ファインアート」に入学し、アメリカの絵画法や西欧美術を学びました。
クラスメイトは、みな将来プロの画家や彫刻家を目指しており、張りきりがいのある学校でした。
クラスが終わってからのたまり場は、ヴァンネス通りのカフェーレストラン’HIPPO’。
(Hippopotamusの略で動物のカバ。外にも大きなカバの看板があった)
カフェーヒッポでの話題は、もっぱら芸術論と将来プロの芸術家になる夢。
画材の費用がかかるので、みんなはコーヒー一杯で長時間ねばる。
ある日から私たちのテーブルに、マネジャーが大盛りの自家製ポテトフライをそっとテーブルに置き、
「これはサービス!」と言ってウィンクした。
男女とも彩色ゆたかな服装から、近所のアートアカデミーからきた生徒達と知っての”差し入れ”だったのでしょう。
「うわ~、サンキュー!」 みんなはお腹がすいているから大喜び!
あの特製’ひし形の厚く揚げたポテト’は、おいしかったな~。
今もマネジャーの優しい笑顔が忘れられません。
サンフランシスコに到着した初めのころは、女性専用寄宿舎に住んでいました。
そのうち同じ学生同士で仲良しになったシェリアンとジョーンと私は、ある日
「3人一緒にアパートに住みましょうよ!」
大賛成で早速アパート探し。
しばらくして3人は大満足するアパートを見つけました。
カルフォーニア通りのマークホプキンズとフェアモントホテルが並ぶ反対角にある2ベッドルームのアパートでした。
いよいよ引っ越しの日に、寄宿舎の女性マネージャー(白服の尼さん)から引っ越しのお祝いにと、
新品の敷布2セットをプレゼントしてくださり、大感謝。
今も忘れられない思い出です。
引っ越してから新しい電話番号を母につたえ,アルバイトするから送金無用、
とまで伝えました。
ところがアパートの家賃が450ドルなので三人は「引っ越し済んだらアルバイトを探しましょうね」
全く呑気な話で、若者がもつ’超楽天思考’もいいとこですわい。
アパートに移って荷物の整理をしていたら、電話が入って、父の声。(ドキ!)
「弓ちゃん、あなたはいったい何を考えているのですか?」
「えっ?」 (アワワ~の私)
「あなたは絵の勉強に行ったのではないですか?」
「もちろん絵の勉強は続けます。ただ私はもう大人ですから、アルバイトをしてアートアカデミーも夜間部に変えます」
しかしわたくしの自信は、父の穏やかな声と沈黙にぐらつく。
結局「ごめんなさい」と謝る。(いつものことだけど)
ただ私の必死の説明と独立心だけは、父も理解してくれたようです。
最後に「日系会社に勤めるなら、よろしい」
それで父関係の日系支店会社に昼間勤めることになりました。
今、あらためて父に感謝します。
なぜならその会社勤めによって、わたくしの人間形成に、大変良い勉強になったからです。
大学時代の余暇にタイプライターを習得したのも幸いでした。
(当時タイプライターは会社勤めに必須でしたから)
リンク:
https://www.youtube.com/watch?v=q1x8W29pDRw
今思い出しても懐かしいサンフランシスコの古き良き時代のお話です。
続きはは10月の「サンフランシスコ その2」に記載します。
日本のみなさま、どうぞお元気で、明るい生活を続行しましょうね!
今日のランチ: 彼が作った今日のランチ。味噌汁だけ私がつくりました。 彼は日本のビールが大好きで、わたくしもちょっとだけいただく。