弓のサンディエゴ通信

昭和時代のクリスマス

内山雨海先生のクラスで描いた弓の絵 (父がサンデイエゴに持参してくれました)

長女の私と次女ノコは小さい頃、高円寺の祖父母の屋敷の離れに父母といっしょに住んでました。それで歩いてすぐの光塩女子学院に入学して私はカトリックの光塩女子学院に初めて設施された初等科第一期生になる。

以前から中学や高校はあり、はじめの頃、小学生は14~5人しかいなかった。中学や高校の上級生方は大変やさしく、小さな私達を可愛がってくださいました。

校長と副校長様もスペイン出身のマドレで、英語の先生はアメリカ生まれのマドレ。

日本人のマドレも一人いらした。カソリックの洗礼を受けたのもその頃でした。

初孫のわたくしを祖父のじいじは、よくお散歩に肩車してつれてってくれ、そのあと応接間にあるビクターの蓄音機をかけて、ハワイアンを聞いたり、ときに活動写真機で、バスターキートンの白黒の動画を見せてくれました。キートンが滝のある岩から岩へ歩いてゆく姿が面白くて、何度見ても笑いころげてしまったっけ。

クリスマスには親戚一同があつまって、恒例クリスマスパーチイーをするのもじいじとばあばの応接間でした。

祖父母宅のクリスマスパーチィーには一つ条件付き。。。何か余興を持ってくること!

息子4人の若い男性がいる小野家がいつも一位になった。彼らの歌がまるでプロみたいに、ハーモナイズされて全員一致で勝利に輝いた!

宮道家族は父が女性に着飾り、母は男性姿になって、鼻の下に髭をつけて、レコード音楽に合わせて踊り、まだ子供の妹と私はタンバリンをたたいて、宮道家族は’努力賞’に輝いた!

じいじの家は広くて門を入ると二つ玄関があり、大きな開きドアーはお客様用、奥のドアーは住人用でした。玄関の脇に池があり、内庭には大きな池があって、鯉が泳いでました。玄関口と奥庭の池はつながってたのかしら?同じ鯉が両方の池に泳いでました。

広い奥の庭に、二宮金次郎の石像がこんもりした築山の道にありました。

ある日、両親が外出して、母屋でじいじと一緒に昼食をいただいてた。

「ごちそうさま~!庭で遊ぼ~っと!」と言って立ち上がったら、「ちょっと待ちなさい、まだ終わってないでしょ?」とじいじ。

お茶碗をみたら、まだ数粒のご飯がくっついてた。

「お百姓さんはね、弓ちゃんがまだ寝てるうちに起きて、お米を育ててくださってる。そのお米を残したら罰があたるでしょう?」

といつもになく厳しい声。まだ4歳の子供の私はとても恥ずかしくなって、残ったご飯粒を大慌てで一粒ずつ、つまんで口に入れました。そのような私をじいじはジ~っと見つめてから、やさしい笑顔で大きくうなずき「サ~、いっしょにお散歩に行こういかい?」

あの日大好きなじいじから初めて叱られたけど、それ以来ご飯粒が残ってないかとチェックしてから「ごちさま~!」の癖がつきました。大好きな’じいじ’との良い思い出です。

高円寺の祖父母の家から、そのうち荻窪の2階家に引っ越したのは、私が中学生になったときでした。

父も成蹊高校で学び、私は成蹊中学と高校に通ってから、慶大に入学して文学部美術美術史学を専攻したのも、小さい頃から絵画が好きだったから。(小さい頃コンクリートの道に白墨でお姫様を描いて、近所から苦情が出て、母に叱られたっけ)

成蹊中学と高校では、美術部にはいって絵を描いてる私を、ある日母は水彩画の内山雨海先生の家につれていった。

内山先生は「僕の隣りに座りなさい」と大きなギョロ目で見つめるので、私は震え上がったっけ。

大人の男性ばかり4人の生徒さんがおり、水彩画を描くわたくしの絵を先生はその大きな目でにらむ。

しかし内山先生は私に筆使いと、流れるようなリズム感ある画法をおしえてくださった。この画法は時に油絵やアクリルにもつかって、米国で絵の先生になったときに、生徒さん方にも学んだ画法をおしえることができました。

厳しい先生でしたが、今改めて内山先生と、良い先生をみつけてくださった母に感謝します。

内山雨海(うちやま うかい)ウィキぺデイア

昭和の書家、水墨画家。東京生。浦上玉堂に私淑。大正二年、棟方志功、小泉繁両人と三人展を開催。その後、下村為山に見出され、以後墨画の指導を受ける。書画一致を主張し、墨絵創作。ドイツのレンベルツ美術館で個展を開催するなど各地で個展を開いた。レンベルツ芸術賞受賞。毎日書道展審査員。東京美術院院長。

上記の写真:内山先生時代に、私が描いた水墨画。(父がサンデイエゴに来訪したときに持参してくださった)

私がアメリカ在住になると、両親は毎年来訪してくれました。しかし、子煩悩な母が亡くなり、残された父はその後も毎年アメリカに来訪して、ある年は、私が横浜に一人住まいの父に会いに行き、父と一緒に過ごして私の下手な料理に「おいしいねー」と言ってくださった。思わず涙がでてしまいました。

サンデイエゴに帰る日、妹たちと一緒にタクシーから振り返ったら、窓から父がジーっと見つめていらした。

時に厳しく叱り、明るく子煩悩な両親でしたが、ママが亡くなった5年後に父は、母の待つ天国に召されました。明るく愛情深い父母でした。

大昔の昭和時代のクリスマス。。。これからもクリスマスを迎えるたびに思い出して、天の祖父母や両親を懐かしむことでしょう。

皆さん、どうぞ実りあるクリスマスをおすごしください!

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